問い続ける、装いと美の本質|高木由利子×小池一子
Point
渋谷ファッションウィーク2026春のプログラムの写真展「Threads of Beauty 1995-2025 ― 時をまとい、風をまとう。」の会期中、写真家・高木由利子と長年の盟友であるクリエイティブ・ディレクター・小池一子によるトークセッションを開催。ファッションと向き合い制作を続けてきた両者の「装い」と「美」の本質をめぐる対話。
- SFW2026アートプログラムのトークイベント
- 写真家・高木由利子と、クリエイティブ・ディレクター・小池一子による対話
- 「装う」ことの本質、美の根源、均質された社会への抵抗など時代を超えたテーマ
「糸(スレッド)」が紡ぐ30年
このプロジェクトにもともと想定されていたタイトルは、「Vanishing Beauty(消えゆく美)」だった。消えゆく美よりも連なり続ける美を。より希望を込めた「Threads of Beauty」という言葉に辿り着いたという。糸、連なり、ネットワーク、会話の流れ──「スレッド」という言葉が持つ多義性は、世界各地をめぐり続けたこのプロジェクトの性質とも重なる。高木由利子は、自身のプロジェクトを「気づけば30年が経過していた」と振り返る。
「わたしは一度プロジェクトを始めたら、なかなか終わらせないんです。誰かに『いい加減にしなさい』と言われないと続けてしまう(笑)。このプロジェクトも、気付けば30年経っていました。でも、いま、この場所で発表することにすごく意味を感じています」(高木)
今回の展示で際立つのは、写真そのものの物質性だ。竹和紙にインクジェットプリントで出力し、和紙の周囲を手でちぎり、布にミシンで縫いつけ、さらに和紙の上にニスを塗る。高木が語るように、「人間的な手間が加わることで何かが人に伝わる」。デジタルデータとして瞬時に生産・消費される画像が溢れるいま、その一枚一枚に費やされた時間と手仕事が、作品に固有の重さを与えている。
“わたしのスーパーモデルを探す”
〈Threads of Beauty〉シリーズが生まれたのは、偶然の出会いからだった。1990年代、美はスーパーモデルの時代だった。ナオミ・キャンベル、クリスティー・ターリントン、ケイト・モスといったスーパーモデルたちがメディアを席巻し、モデルというこれまでアノニマスだった存在に光が当たったことは、大きな変革であった。一方で、ファッション写真が特定の身体や顔のイメージへと収斂していくことに、高木は違和感も抱いていた。
「ファッションページがスーパーモデルのポートレートのオンパレードになっていて、美の基準が画一的になっていった。人と服の関係が無視されているのではないか、と残念に感じていたんです。同時に、当時は『女流写真家』『女流アーティスト』といったくくりが始まったタイミングでもありました。そうしたコンセプトを前面に打ち出した賞の候補に何度も挙げていただいたのですが、わたしはことごとく反抗していた。わたしはたまたま女性であって、女性だから良い/悪いではないと思っていたから。だからこそ、『わたしはわたしとして、自分のスーパーモデルを探す旅に出よう』と決めたんです」(高木)
イッセイ・ミヤケやひびのこづえの作品を、世界各地の人々に着てもらう撮影を続けていた高木。彼女によれば、それは美を異なる土地へと持ち込むものだった。そこに大きな変化を促したきっかけが、中国のイ族の村でふと目に入った、ある男性の佇まいだった。それが〈Threads of Beauty〉の原点でもある。
「その方の装いや振る舞いに釘付けになったんです。彼がもともと着ていた服が、ただただ格好良かった。それまで、わたしはドキュメンタリー的な写真にあまり専念しておらず、『現地の人が日常的に着ている服を記録する』という発想もあまりなかった。しかし、そのあまりの美しさが、自分の固定概念を飛び出して『いまのうちに撮らないといけない』と決意させてくれたんです」(高木)
捉え続けた、服と肉体との境がない人々
しかし、それは民俗学的な記録の探求への決意とは異なる。アジア、アフリカ、南米など12カ国をめぐる30年は、高木にとってはあくまでも「美」や「格好良さ」を追い続けるためのものだった。
高木はファインダーを覗くとき、常に映画のワンシーンを切り取るようなイメージで被写体に向き合うという。フィクションとも、演出とも異なる、その土地の人々がそれぞれもつ、固有でピュアな美しさにフォーカスしたストーリーが脳裏に立ち上がり、被写体はそのストーリーの役者となる。では、高木がシャッターを切りたくなる役者とは、「格好良い」人々とは、どのような人々なのだろうか。
「服と、肉体との境がない人。ディオールを着ていようが、普通の服を着ていようが、生き様が出ている人かしら。わたしが撮る人々の伝統的な衣服は、決して『楽な服』ではありません。身体の動きを規定し、着るたびに手間がかかる。鏡もなく、家族以外の他人に会うことも少ない環境で、それでもなぜ毎日丁寧に着飾るのか。それは民族としての帰属意識なのか、自己表現とは異なる、生活の一部としての着飾る衣服なんです。何かを纏わないと生きていけないわたしたちは、機能性にフォーカスしがちです。そのなかで、日本人は着物という伝統的な衣服を手放したわけです。そんなわたしたちに、問いかけてくれることはすごくあるように思います」(高木)
長年の盟友である小池一子も、その問いに深く呼応する。
「インドの道路工事をする女性は、サリーをまとい、手首から肘まで金属の装飾品を重ねていたりするでしょう。家であれ、工事現場であれ、自分を着飾るための宝物は手放さない。スマートフォンに向かってうつむくわたしたちの姿勢や所作と比べたとき、彼女たちの潔い振る舞いが、なぜ美しく、格好良いのかということを考えさせてくれますよね」(小池)
Wild and Elegance = Beauty
「美しさ」「格好良い」とは何か。そんな茫漠とした問いに、ファッションを通じて向き合ってきた2人は言葉を響き合わせながら、ひとつのヒントを与えてくれる。小池は、「装い」という言葉を紐解きながら、このように語る。
「『装飾』の『装う』という言葉は、身だしなみであったり、さらにはご飯の盛り付けであったり(よそう)、『美しく整える』という発想を本来もっています。服を着るだけでなく自分らしく整える、つまり自分のものにしていること。由利子さんの言う『服と肉体との境がない人』のことですね。人は飾ることはするけど、そうした意味での装いは忘れがちです。でも、格好良さとは自分らしく整っていることなんじゃないかしら」(小池)
外側から与えられたイメージを「飾る」のではなく、自分の内側から「装う」こと。それは、高木が長年追い求めてきた「Wild and Elegance」というテーマに通底する視点でもある。
「野生的、言い換えると『無意識の存在』のしかたに美があると思うんです。宇宙に、地球に存在するものの一部として、そもそも存在していること自体が完璧で、美しい。その根源的な美しさと地続きであるかが重要。でも、その感覚を人間はすぐに失いがちです。すぐに格好悪くなってしまう。戦争も起きているし、失望することの多い時代かもしれないけれど、それでも、その格好良さをもった人々が、わたしたち人間のなかにたくさんいるんだということも忘れないでほしい。そう思うんです」(高木)
そこで小池が引用したのは、故・坂本龍一がよく口にしていたというラテン語の格言「Ars longa, vita brevis(芸術は長く、人生は短し)」だった。
「日常にはさまざまなことが起きるから、本質的なことをゆっくり考えることはなかなかできない。だからこそ、人は間違う。わたしたちの親は、戦争に向かう社会の流れになぜあんなにやすやすと乗っていってしまったのか。人間が大きな流れに順応せざるを得ないのはなぜかという疑問があった。美の均質化という時代の流れに順応することへの抵抗は、そうした原点があったからのようにも思います」(小池)
短い人生を生きる過程で過ちを犯すからこそ、人には歴史が必要となる。小池が「人の歴史は、表現が残ることで物語られる」と言うように、写真はそれを担うメディアでもある。数十年という、いち個人にとっては極めて長い年月をかけて美を追い求める高木の作品は、まさにその「長い芸術」の実践そのものだといえるだろう。
プロフィール
高木由利子
写真家
東京生まれ。武蔵野美術大学にてグラフィックデザイン、イギリスの Trent Polytechnic にてファションデザインを学んだ後、写真家として独自の視点から衣服や人体を通して「人の存在」を撮り続ける。近年は自然現象の不可思議にも深い興味を持ち、〈chaoscosmos〉といったプロジェクト含め新たなアプローチに挑戦し続けている。
小池一子
クリエイティブ・ディレクター
東京生まれ。武蔵野美術大学名誉教授。1960年代後半からファッション・デザインを中心とする執筆・編集の仕事を展開。1980年に「無印良品」創業に携わり、以来アドバイザリーボードを務める。1983年に「佐賀町エキジビット・スペース」を創設主宰し、多くの現代美術家を国内外に紹介(〜2000年)。令和4年文化功労者。令和6年旭日中綬章受章。